【SUNNYな日々】~12月3週目~
こんばんは! SUNNY DAYの Goです!
今週は約半年ぶりに実家に帰省しました。
帰省したら、いつも欠かさず行くのが京都の下町「伏見」。
父の故郷であり、親族の集まり場所であった為、幼少期から頻繁に訪れていました。
その為か、いつ行っても殆ど変わらない街の様子にとても懐かしさを感じます。
京都の他の有名観光スポットと比較すると地味かもしれませんが、
実は結構見どころがたくさんありますので、意外な一面を紹介したいと思います。
・「大手筋商店街」
令和時代に昭和感が残っている数少ない商店街であり、観光向けではなく
庶民の台所と言うにふさわしいノスタルジックな商店街。
京都市中心部のように観光客価格ではないのが嬉しい。
・水運の街
秀吉の伏見城築城の際に伏見港が形成されて、大坂との水運の拠点になりました。
坂本龍馬は、この港からお龍をつれて薩摩へ新婚旅行に旅立ったといわれてます。
・「酒どころ伏見」
伏見は「伏水(ふしみず)」と呼ばれる良質な水が豊富にあった為、日本酒作りに適しており、
月桂冠・黄桜・宝酒造等、日本を代表する大手酒造から、小さい酒蔵までたくさんの酒蔵があります。
水質はまろやかな中硬水の為、柔らかな水から、優しく芳醇な味わいのお酒ができます。
小さい頃から、ここに来ると水が美味しいな~と思ってたのですが、その意味が大人になって解りました。
・「太閤秀吉が築いた伏見城」
ご存じ豊臣秀吉といえば、大阪城が思い浮かぶ人が多いですが、住んでいたのは伏見城である事を知っている人は
歴史好きでない限りは、多くないと思われます。
それもそのはず、伏見城は現在は存在しない為です。
・「伏見城の歴代城主が実は凄すぎ‼」
豊臣期
豊臣秀吉により築城され、秀吉公は大阪城と伏見城を行き来してましたが、晩年は伏見城で過ごしたようです。
徳川期①
秀吉の死後、徳川家康が入城しましたが、この時はすぐに大坂城に移り、その為に諸大名の大名屋敷が伏見から大坂に移った為、城下町が廃れてしまったといわれてます。
徳川期②
関ケ原の戦い後、家康は再び伏見入りし、伏見城と二条城(世界遺産)を再建し、再び伏見城に帰城しました。
家康が征夷大将軍の宣下を受けたのは、江戸城ではなく伏見城で、3代将軍家光までは伏見城で将軍宣下式を行っていたそうです。征夷大将軍になった後の家康は、暫くの間、江戸城と伏見城を行き来してましたが、トータルの居城期間は伏見城の方が多いといわれ、江戸幕府初期は「伏見幕府」といっても過言ではないとされてます。
家康が駿府に移動した後は松平氏が居城し、その後家光の時代に廃城になりました。
廃城後
廃城後は伏見奉行の管轄で幕末までは立入禁止区域で、本丸のあった主郭部分は後に明治天皇の陵墓とされ現在も無許可での立ち入りは禁止されてます。(現在は宮内庁の管轄)
現在は桃山御陵(明治天皇陵)となってます。
・「変わった住所がたくさんある。」
秀吉~徳川3代まで実質政権の中心であった為、たくさんの大名屋敷がありました。
その名残が現在も住所として残ってます。
桃山町正宗(伊達政宗)← 超有名な戦国武将 「独眼竜」の異名を持つ
桃山最上町(最上義光)← 伊達政宗の伯父。最上家の全盛期を築き上げた大名
桃山長岡越中町(細川忠興)← 細川ガラシャの旦那。利休七哲の一人に数えられる教養人で茶道の三斎流の開祖
桃山町島津(島津以久)← 島津家の中でも勇猛な武将で島津分家の筆頭格であった
桃山町三河(徳川家康)← 誰もが知っている江戸幕府初代将軍
桃山福島太夫町(福島正則)← 豊臣秀吉の七将の一人
桃山筒井伊賀町(筒井定次)← 伊賀上野城の初代城主 部下に有名な猛将 島左近がいる
桃山毛利長門町(毛利輝元)← 中国地方の大大名 5大老の一人
桃山羽柴長吉町(池田長吉)← 因幡鳥取藩初代藩主
(因みに、私のご先祖様は鳥取藩で家老をしていたらしいのでご縁があったのかも知れません。)
桃山町松平筑前(前田利常)← 傾奇者で超有名な「前田慶次郎利益」の従兄弟で、利常も有名な傾奇者だったらしいです。藩を守る為にわざと虚け者を演じていたといわれてます。
名だたる大名が住んでいたことを考えるとかつて政治の中心であったことも頷けますね。
と、今回は少し歴史のお勉強みたいになってしまいました😅
今年もあと少しですね!
それではまた来週👋
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